第1章 7.最後のこどもたち

無事に地上に帰ってきたイザナギは、一日に千人殺すと言ったイザナミのことを黄泉津よもつと名付けた。逃げて逃げて逃げた自分を追いかけてきたから、「道を追いかけてくる」という意味をもつ道敷ちしきとも名付けた。

だって、黄泉国よみのくにで会ったイザナミは、生きているときのイザナミとは違っていたから。

違う名前をつけることで、これまでと違う神さまになったって、違う力を持つようになったって、きちんとわけて考えたかったんだ。

それから、坂をふさいだ千引岩ちびきいわ道反ちがえしと名付けた。イザナミをあの「道から追い返してくれた」という意味だ。さらに、黄泉戸よみどとも名付けた。

ちなみにね、黄泉比良坂よもつひらさかは、今でいう出雲国いずものくににある伊賦夜坂いふやざかのことなんだ。

 

 

イザナギは、あぁやっぱり生きているってすばらしいとしみじみ思った。それから黄泉国よみのくにで死のけがれに触れたことを思い出した。

「あぁ、私はみるのも嫌なくらいけがれた国にいってたんだな。これは、みそぎをしないと」

そう言って、筑紫つくし日向ひゅうがたちばな小門おど阿波岐原あわぎがはらというところに行き、みそはらいをしたんだ。つまり、水で身体を清めたってことだ。

水に入るために投げ捨てたり脱ぎ捨てたりしたものから、また神さまたちが生まれた。これまでとは違う神さまたち。

つえから、「ここから来るな」という意味の衝立船戸つきたつふなどがうまれた。

帯から、長い道の神さま、道之長乳歯みちのながちはがうまれた。

袋から、時量師ときはかしがうまれた。(あぁ、一体どんな神さまなんだろう!)

服から、わずらいのぬしの神さま、和豆良比能宇斯能わづらいのうしのがうまれた。

はかまから、分かれ道の神さま、道俣ちまたがうまれた。

かぶっていたかんむりから、飽咋之宇斯能あきぐいのうしのがうまれた。(あぁ、この神さまもどんな神さまなんだろう!)

左の手につけていたかざりから、沖に遠ざかるという意味の神さま、奥疎おきざかるが、次になぎさの神さま、奧津那藝佐毘古おきつなぎさびこが、それからその間をつかさどるの奧津甲斐辨羅おきつかいべらがうまれた。

右の手につけていたかざりから、海のはしに遠ざかるという意味の邊疎へざかる、そのなぎさの神さま、邊津那藝佐毘古へつなぎさびこ、その間をつかさどる邊津甲斐辨羅へつかいべらがうまれた。

この神さまたちは、海の道の神さまたちなんだ。

 

 

イザナギは、水に入る前に「上流の水の流れは早いし、下流は弱いからな」と悩んでから、結局、その間の流れに入ることに決めた。そして、水の中に深くもぐった。

この時、黄泉国よみのくにの汚れから、わざわいの神さまである、八十禍津日やそまがつひ大禍津日おおまがつひがうまれた。

その禍事まがごと、不幸なことを訂正ていせいするためにうまれた神さまもいる。神直毘かみなおび。そして大直毘おおなおび。それから伊豆能女いづのめだ。

イザナギは、水の底で身体をすすいだ。

底津綿津見そこつわたつみ底筒之男そこつつのおがうまれた。

次に、水中の真ん中あたりで身体をすすいだ。

中津綿津見なかつわたつみ中筒之男なかつつのおがうまれた。

それから、水面近くで身体をすすいだ。

上津綿津見うわつわたつみ上筒之男うわつつのおがうまれた。

この底津綿津見そこつわたつみ中津綿津見なかつわたつみ上津綿津見うわつわたつみは、海をつかさどる神さまだ。

そして、彼らの子孫には阿曇連あづみのむらじという人たちがいる。調べてみるといい。

あとね、この時の底筒之男そこつつのお中筒之男なかつつのお上筒之男うわつつのおは、墨江すみのえ住吉すみよし)神社の神さまとして今もまつられているんだ。

そう、この物語はね、ずっとずっと昔のことだけれど、ちゃんと「今」にもつながっているんだよ。

 

 

最後に、イザナギは左目を洗った。

太陽の神さまである、天照大御神あまてらすおおみかみがうまれた。

イザナギは右目を洗った。

月をつかさどる神さまである、月読つくよみがうまれた。

イザナギは鼻を洗った。

勇敢で力強い神さまである、建速須佐之男たけはやすさのおがうまれた。

太陽と月と力。

どこからどうみても特別な子たちだった。

イザナギは喜んだ。「子供を生んで生んで、生んだ最後に、こんなに素晴らしい三柱みはしらの子が生まれたなんて」と笑顔をみせた。「とうとい子たちだ。三貴子さんきしと呼ぼう」

だけど、もちろんイザナギには、これまでの子供たちは全員が大事だってわかっていた。

同じ存在はいない。みんなそれぞれの役割がある。

そうして、これまで一緒に子供を生んできた、もう会えないイザナミのことを想った。

この三貴子さんきしを大切に育てようと心に誓った。