無事に地上に帰ってきたイザナギは、一日に千人殺すと言ったイザナミのことを黄泉津と名付けた。逃げて逃げて逃げた自分を追いかけてきたから、「道を追いかけてくる」という意味をもつ道敷とも名付けた。
だって、黄泉国で会ったイザナミは、生きているときのイザナミとは違っていたから。
違う名前をつけることで、これまでと違う神さまになったって、違う力を持つようになったって、きちんとわけて考えたかったんだ。
それから、坂をふさいだ千引岩を道反と名付けた。イザナミをあの「道から追い返してくれた」という意味だ。さらに、黄泉戸とも名付けた。
ちなみにね、黄泉比良坂は、今でいう出雲国にある伊賦夜坂のことなんだ。
イザナギは、あぁやっぱり生きているってすばらしいとしみじみ思った。それから黄泉国で死の穢れに触れたことを思い出した。
「あぁ、私はみるのも嫌なくらい穢れた国にいってたんだな。これは、禊ぎをしないと」
そう言って、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原というところに行き、禊ぎ祓いをしたんだ。つまり、水で身体を清めたってことだ。
水に入るために投げ捨てたり脱ぎ捨てたりしたものから、また神さまたちが生まれた。これまでとは違う神さまたち。
杖から、「ここから来るな」という意味の衝立船戸がうまれた。
帯から、長い道の神さま、道之長乳歯がうまれた。
袋から、時量師がうまれた。(あぁ、一体どんな神さまなんだろう!)
服から、煩いの主の神さま、和豆良比能宇斯能がうまれた。
袴から、分かれ道の神さま、道俣がうまれた。
かぶっていた冠から、飽咋之宇斯能がうまれた。(あぁ、この神さまもどんな神さまなんだろう!)
左の手につけていた飾りから、沖に遠ざかるという意味の神さま、奥疎が、次になぎさの神さま、奧津那藝佐毘古が、それからその間をつかさどるの奧津甲斐辨羅がうまれた。
右の手につけていた飾りから、海の端に遠ざかるという意味の邊疎、そのなぎさの神さま、邊津那藝佐毘古、その間をつかさどる邊津甲斐辨羅がうまれた。
この神さまたちは、海の道の神さまたちなんだ。
イザナギは、水に入る前に「上流の水の流れは早いし、下流は弱いからな」と悩んでから、結局、その間の流れに入ることに決めた。そして、水の中に深く潜った。
この時、黄泉国の汚れから、禍の神さまである、八十禍津日と大禍津日がうまれた。
その禍事、不幸なことを訂正するためにうまれた神さまもいる。神直毘。そして大直毘。それから伊豆能女だ。
イザナギは、水の底で身体をすすいだ。
底津綿津見と底筒之男がうまれた。
次に、水中の真ん中あたりで身体をすすいだ。
中津綿津見と中筒之男がうまれた。
それから、水面近くで身体をすすいだ。
上津綿津見と上筒之男がうまれた。
この底津綿津見と中津綿津見と上津綿津見は、海をつかさどる神さまだ。
そして、彼らの子孫には阿曇連という人たちがいる。調べてみるといい。
あとね、この時の底筒之男と中筒之男と上筒之男は、墨江(住吉)神社の神さまとして今も祀られているんだ。
そう、この物語はね、ずっとずっと昔のことだけれど、ちゃんと「今」にもつながっているんだよ。
最後に、イザナギは左目を洗った。
太陽の神さまである、天照大御神がうまれた。
イザナギは右目を洗った。
月をつかさどる神さまである、月読がうまれた。
イザナギは鼻を洗った。
勇敢で力強い神さまである、建速須佐之男がうまれた。
太陽と月と力。
どこからどうみても特別な子たちだった。
イザナギは喜んだ。「子供を生んで生んで、生んだ最後に、こんなに素晴らしい三柱の子が生まれたなんて」と笑顔をみせた。「貴い子たちだ。三貴子と呼ぼう」
だけど、もちろんイザナギには、これまでの子供たちは全員が大事だってわかっていた。
同じ存在はいない。みんなそれぞれの役割がある。
そうして、これまで一緒に子供を生んできた、もう会えないイザナミのことを想った。
この三貴子を大切に育てようと心に誓った。