イザナギはイザナミのことを忘れようと思った。だけど、忘れられるはずもない。あきらめられるはずもない。だってうまれた時から一緒にいた対の神さまなのだから。心から愛した相手なのだから。
―もう一度会いたい。
イザナギは、死者が暮らす黄泉国を目指した。
―生き返りますように。無事に行き帰れますように。
―蘇りますように。黄泉からかえりますように。
何日も歩き回って、そうして歩き疲れた頃、イザナギはやっと黄泉国の入り口にたどり着いた。暗闇の中を地下へとくだってゆくと、巨大な建物にたどりついた。固く閉め切っている扉は、他から来る者を拒んでいるようだった。イザナギは覚悟をきめて、その扉を開けた。
かび臭い匂いが鼻をついた。
―ここが黄泉国。死者が暮らす国。
周りを見回しながら、イザナギは叫ぶように言った。
「愛しいイザナミ!」
―そこにいるのだろう?
「一緒に作った国は、私たちが生んだ国は、まだ作り終わっていない」
―きみがいないとこの世界は完成しない。
「だから、一緒に帰ろう」
―たとえ、それが許されない願いだとしても。
闇の中で、自分の声がこだまする。巨大な建物の奥まで響いてゆきそうだ。イザナギはじっと耳をすませた。
すると、かすかにイザナミの声が聞こえてきた。
「あぁ、悔しい。もっと早く迎えにきてくれていたならよかったのに。私は、もう黄泉国の食べ物を食べてしまったの。この黄泉国の住人に、死者になってしまったの」
イザナミはしばらく泣いたあと、続けてこう言った。
「けれど、愛しいあなたが迎えにきてくれたのだもの。私だってできることなら一緒に帰りたい。黄泉国の神さま、黄泉神と話し合ってみます。そのあいだ、私のことを決して見ないでくださいね」
どうやらイザナミは建物の奥に向かったようだった。
イザナギは待った。
うろうろと歩き回りながら待った。扉に寄りかかりながら待った。座りながら待った。それでもイザナミは戻ってこない。
耐えきれなくなったイザナギは、左の髪に挿していた櫛、湯津津間櫛の太い歯を一本折った。ただの折れた櫛の歯のはずなのに、イザナギが持つとそこに火が灯った。あたりが明るくなる。
イザナギは、その明かりをたよりに、建物の奥へ進んでいった。
そこにいたのは確かに愛する妻、イザナミだった。
けれども、その美しかった身体には蛆がわき、醜く腐っていたのだ。
そうして、頭には大雷が、胸には火雷が、お腹には黒雷が、下半身には折雷が、左の手には若雷が、右の手には土雷が、左の足には鳴雷が、右の足には伏雷がいた。全部で八柱 (*)の雷神がそこに生まれていた。
あまりの変わりように、イザナギはびっくりした。
いや、びっくりなんてもんじゃない。心底、恐ろしくなったんだ。
死んだらこんなに変わってしまうだなんて!
想像もしていなかった姿は、イザナギに「死」というものの怖さを教えた。
イザナギはその場から一目散に逃げ出した。
取り残されたイザナミは、せっかく黄泉国まで迎えにきてくれた夫が逃げ出したことにびっくりした。
いや、びっくりなんてもんじゃない。心底、怒りがこみ上げてきた。
―見ないでと約束したのに。
「私に、恥をかかせたわね」
―許さない。
―私にはもう、なにも残っていないのに!
*神さまを数えるときは「一人、二人」じゃなくて、「一柱、二柱」って数えるんだ。